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松沼博久・雅之、ドラフト外の肖像#3 一躍プロ注目選手へ。それでも想いは「兄弟で都市対抗優勝しよう」

日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。

2018/10/11

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記録ずくめの投球も…

 75年4月、松沼は東洋大学を卒業し、東京ガスに入社した。ここでも目を引くような結果を残すのはしばらく経ってからのことだ。
 
 社会人4年目の都市対抗野球1回戦の松山市代表の丸善石油戦でのことだ。
 
〈松山市の打者にとって、これほど腹立たしい投手はいなかったろう。なにしろバットがちっとも球にかすらないのである。下手から投げ込んでくる松沼の球は、打者の手元にくると、浮き上がり、あるいは急角度で落ちた。
 
 一回の立ち上がりこそ、球筋が定まらず、先頭打者に死球を与えたが、一死後、山下、永田の主軸打者を三振に打ちとってから三回までは連続7三振。一球投げるごとに、松沼の帽子は右にずれた。松山市の各バッターはキツネにつままれたように首をかしげながら、バッターボックスからすごすごとベンチへ引き返していった。
 
 もちろん連続7三振は大会史上初の快記録だ。三回二死後、打席に入った福永は、なんとか松沼のこの〝魔術〟を断ち切ろうとバントを試み、やっと連続三振を「7」で食い止めた。その後も、松沼の奪三振は毎回つづき、結局、一試合の合計奪三振でも大会初の「17」を記録した〉(毎日新聞 1978年8月3日付)
 

 
 これまでの最多奪三振記録は、1967年大会で日本石油の平松政次が記録した16だった。また、連続奪三振は同じく平松ら4人の投手が「5」を記録していた。毎回奪三振も過去3人しか達成していない。記録ずくめの投球だった。
 
 しかし、松沼は冷静だった。
 
「なんとなくバッターが振り遅れているような。そういうボールが投げられていたので、追い込んだら三振を取るというイメージでしたね。だいたい1試合に10個ぐらいは三振取っていたので、ぼくの中ではそんなに多く三振を獲ったという感じではなかった」

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