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松沼博久・雅之、ドラフト外の肖像#3 一躍プロ注目選手へ。それでも想いは「兄弟で都市対抗優勝しよう」

日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。

2018/10/11

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3年で台頭もプロは厳しいと思い込んでいた

 松沼が力を発揮するのは、3年生の春季リーグからだ。
 
「エース級が抜けて3年生になると、上級生だからまるで天皇陛下のような(扱い)じゃないですか。友だちと夜に出かけらるようになる。生活が楽になって、野球も楽しめるようになった。監督はうるさいんだけど、(自分は)あんまり怒られていないんですよ。それで春から天下を取ったように投げた」
 
 東洋大学は開幕から4連敗。その後の、日本大学戦で松沼は2試合連続完投勝利。同じ3年生の左腕、市村則紀と松沼の二本柱により、リーグが終わってみると3位という好成績だった。市村は電電関東を経て、82年のドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けてプロ入りしている。
 
 秋季リーグ戦でも松沼は5勝を挙げ、チームは2位。また打撃成績でも3割3分3厘と3位に食い込んだ。
 
「1、2年生のときは全然目立っていなかったんですよ。3年生になって目立つというのは不思議なんだけど」
 
 4年生の春季リーグでは、最終戦まで駒澤大学と同じ勝ち点で首位。最終戦で両校が対戦、東洋大学は連敗し、優勝を逃した。駒澤大学の四番に座っていたのは1学年下の中畑清である。彼は周知のように75年のドラフトで読売ジャイアンツから3位指名されることになる。
 

 
「4年生の春先には就職の話があった。ただ、あんまり真剣に考えていなくて、ただ野球をやっていた。暇なときに遊びにいったりしている、気楽な野球人だったね」
 
 プロ野球選手になることは夢だった。しかし、現実には難しいと思い込んでいたという。早い時期に高校時代から世話になった人間の関係で東京ガスに進むことを決めた。
 

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