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元木大介、ドラフト1位の肖像#3――一軍に生き残るためのスタイル変換「好き勝手書いた人たちを見返してやろうと」

かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。

2017/10/12

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プロで生き残るために

 自分の感覚が衰えていると感じたのは、自主トレーニングのときだったという。
「キャッチボールからして何、このスピード、みたいな。球が伸びてくるから。急に野球をやり始めた感じ。(プロのボールは)ビール飲みながらやっているハワイのおっさんのボールとは違う。俺、騒がれて入ったけど、やべーなって」
 
 入団から1年間、元木は二軍で過ごしている。
「本当にクソアマチュアみたいなところから入って来たから、野球に馴れるのに必死だった。最初の1年間はホームランを打ちたいって頑張っていたよ。バッターとしてはホームラン打ちたいからね。でも、二軍でも4本ぐらいしか打てなかった。(高校時代の金属バットから)木のバットに替わったというのもある。プロの投手はスピードもあるし、変化球も切れる。そう簡単には打てないですよ。2年目から、このままやっていても俺は一軍に上がれない、プロではやっていけないなと」
 
 元木がひたすら考えていたのは、どうやれば一軍のベンチに入ることができるか、だった。
 
「好き勝手書いた人たちを見返してやろうと思っていた。偉そうなことを言って入って、あいつ駄目じゃんって言われたくなかった。それで取材拒否してやろうってね。あとは両親に惨めな思いをさせたくなかった。一軍のベンチにいたら、ちらっとでもテレビに映るし、(親に)あ、いたって分かる。いきなりレギュラーなんてそんな甘いものじゃないし、俺の力では無理だと思っていた。控え選手の一番になりたいと思ってやっていた。何かあったときに大介行ってこいって言われるような選手」
 
 元木は本塁打を早々と諦め、右打ちに徹した。また、スコアラーの元に通って配球を学んだ。プロに食らいついていこうと必死だった。
 
 そして狙い通り、元木は3年目から一軍に定着することが出来た。ただし、選手層の厚いジャイアンツでは確固たるレギュラーの座を掴むことができなかった。
 
 2005年に引退するまで15年間通算、891安打、本塁打66本。打撃タイトルは一つも獲得していない。元木の才能を考えれば物足りない成績だ。しかし、本人は後悔はしていないという。
 
 人生を巻き戻しすることができればどこに戻りますか、と訊ねてみた。
 
「高校3年のときだね」
 
 元木は即答した。
「あと1本ぐらいホームラン打てるんじゃねぇかなと。2位タイって言われるのがね、ちょっと引っかかる。もう1本ぐらい、自分のこと考えてやっていたら打てたんじゃねぇかと思うから。チームのことを考えずに7本目を打っちゃおうって」
 
 元木の甲子園通算本塁打は6本。これは桑田真澄、そして今年の夏の甲子園で5本の本塁打を打った広陵高校の中村奨成と並ぶ歴代2位。もう1本打って単独2位にしておけば良かったというのだ。
 
「ホークスからの1位指名については、もう一度拒否しますか」
 
 ぼくが問うと「同じことをすると思う」と短く答えた。
 
「ただ、親は勘弁してくれって言うかもしれないね。大変なことになるから行けって言うかもわかんない」
 
 そう言って笑った。
【つづきは書籍で】

 

 
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元木大介(もとき・だいすけ)
1971年12月30日、大阪府出身。中学時代からすでに注目を集め、上宮高では春2回、夏1回甲子園に出場。89年の夏の甲子園では1試合2本塁打を放つなど、一躍人気者として、旋風を巻き起こす。高校通算24本塁打。同年のドラフト会議では読売ジャイアンツの指名を希望するも願いかなわず、福岡ダイエーホークスから野茂英雄の外れ1位で指名された。結局これを断り、1年間ハワイに野球留学する。1990年のドラフト会議でジャイアンツより1位指名を受けて入団。2年目から1軍で出場。高校時代はスラッガーとして名をはせたが、プロではつなぎ役、内外野守れるユーティリティープレイヤーとして存在感を発揮、勝負強い打撃には定評があった。現役生活では度重なる故障に悩まされ、05年オフに引退。その後はプロ野球解説者や評論家、タレントとして活躍している。
 

【書籍紹介】
ドライチ』 田崎健太著
四六判(P272)1700円 2017年10月5日発売
 
甲子園フィーバー、メディア過熱報道、即戦力としての重圧……
僕はなぜプロで”通用しなかった”のか
僕はなぜプロで”通用した”のか
ドラ1戦士が明かす、プロ野球人生『選択の明暗』
 
<収録選手>
CASE1 辻内崇伸(05年高校生ドラフト1巡目 読売ジャイアンツ)
CASE2 多田野数人(07年大学生・社会人ドラフト1位 北海道日本ハムファイターズ)
CASE3 的場寛一(99年ドラフト1位 阪神タイガース)
CASE4 古木克明(98年ドラフト1位 横浜ベイスターズ)
CASE5 大越基(92年ドラフト1位 福岡ダイエーホークス)
CASE6 元木大介(90年ドラフト1位 読売ジャイアンツ)
CASE7 前田幸長(88年ドラフト1位 ロッテオリオンズ)
CASE8 荒木大輔(82年ドラフト1位 ヤクルトスワローズ)
 
ドラ1の宿命、自分の扱いは『異常だった』(辻内崇伸)
笑顔なき記者会見「なんでロッテなんだ、西武は何をやっているんだ」(前田幸長)
好きな球団で野球をやることが両親への恩返し。その思いを貫きたかった(元木大介)
困惑のドラ1指名。「プロ野球選手だったという感覚は全くない」(大越基)
ぼくは出過ぎた杭になれなかった。実力がなかった(的場寛一)
自分が1位指名されたときは涙なんか出ませんでしたよ(多田野数人)
頑張れって球場とかで言われますよね。これが皮肉に聞こえてくるんです(古木克明)
指名された時、プロへ行く気はなかった。0パーセントです(荒木大輔)
 
 

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