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松沼博久・雅之、ドラフト外の肖像#1――「お前なんか辞めちまえ」博久が初めて出会った、うるさい監督

日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。そんなドラフト外で入団した野球選手をクローズアップし、1冊にまとめたのが10月15日に発売となる『ドラガイ』だ。今回は収録してある中から松沼博久・雅之編をダイジェストで掲載する(全6回)。

2018/10/05

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運動には自信があったが……

 若くして卓越した才能を見せ、未来を感じさせる人間にはえもいわれぬ魅力があるものだ。喩えるならば、蕾から花びらを開くその瞬間にたまたま出くわすようなものだ。だから、甲子園で躍動する球児、あるいはドラフト1位の選手たちに人は惹きつけられる。
 
 しかし、その蕾が大輪の花を咲かせるとは限らない。松沼博久は、高校卒業の18歳、あるいは大学卒業の22歳――どちらの段階でも自分はプロ野球から目を付けられる選手とはほど遠かったと振り返る。
 
 松沼は1952年9月29日、墨田区向島で生まれた。
 
「東武線が浅草から走っていて、業平橋っていう駅から歩いて5分ぐらいのところ。線路の下、ガード下に家があったんだよ」
 
 現在、業平橋駅は「とうきょうスカイツリー駅」と名前を替えている。父親は砂利採取の会社を経営していた。
 
「砂利屋さんです。日本が高度成長期で道路作ったりするのに砂利が必要だったんでしょうね。元々はおじいちゃんが砂利の仕事をしていて渡良瀬川の川砂とか採っていたんですよ」
 
 きょうだいは4人。上に姉が2人、下に弟が1人いる。松沼が小学2年生のとき、一家は千葉県流山に移った。
 
「墨田区のときは小学校が近かったんですよ。流山に行くと、歩いて30分も掛かる。だから、嫌で嫌で。本当に行きたくなくて。毎日、泣きながら姉たちに手を引っ張られて行ってましたよ」
 
 運動には自信があった。
 
「駆けっこは、全部一等賞でしたね。小学校のときから(学校の代表として)選ばれて、小さな大会に出て、高跳びとか幅跳びをやっていました。小学校の先生から中学校の陸上部の顧問に連絡が入っていて、入学すると有無を言わずに陸上部から呼び出しが掛かったんです」
 
 松沼の入学した柏中学校は1学年15クラスという大規模校だった。周辺で住宅開発が進み、急激に生徒が増えていたのだ。
 
「ぼくは1年15組だったかな。講堂を区切ったような(仮設の)教室だったことを覚えています。それだけ人数がいると、陸上部のレベルも高いんです。走るにしても幅跳びにしても、凄いのが沢山いる。そんな連中とやっても何も面白くない。目立つこともない。何日かで行かなくなっちゃったんです」
 
 そんなとき、陸上部の隣で練習していた野球部の存在に気がついた。
 
 野球部は1学年15人ほどで、それほど多くなかった。陸上競技の個人種目よりも、9人で行う野球の方が出番が早く回ってくるだろうという計算もあった。
 
 野球部に入った松沼少年は、すぐに並外れた才能を見せる――というのがよくある物語だ。しかし、実際にはそうではなかった。
 
「もう球拾いですよ。膝に手を当てて、声を出しているだけ、みたいな。ユニフォームも着ていないし、スパイクも持っていない。それどころかクビになりかけたんです」
 
 夏期休暇前、松沼は風邪を引き、咳が止まらなかった。夏じゅう、自宅で寝込んでいたため、練習に参加したのは1日だけだった。
 
「夏休みが終わる頃、野球部の集合が掛かって、教室に集められたんです。夏休みに一度も練習に来なかった奴がいたんです。そいつはもう来なくていいからって帰らされた。ぼくは一日だけ。絶対にクビじゃないですか。監督から〝お前はやる気があるのか〟って言われて、〝やる気はあります〟って残ったんです」
 
 2学期になって松沼はスパイクを買い、野球部員としての体裁をようやく整えた。
 

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