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古木克明、ドラフト1位の肖像#2――ベイスターズは希望球団にあらず。「来るな、来るな」

かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。

2017/09/20

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打撃フォームを見失った高校3年

 プロ野球の世界で古木の1980年生まれは特別な意味を持つ。松坂大輔がいる、いわゆる松坂世代である。
 
 松坂が頭角を現したのは、高校2年生の秋からだった。そして3年生となった春の選抜高校野球では150キロを越える速球を投げ込み、横浜高校を優勝に導いている。
 
 豊田大谷高校の古木克明が同じ年の投手として初めて意識したのは、藤川球児だった。
 
 古木、そして高知商業の藤川の二人だけが、2年生の夏の甲子園の後、高校日本代表に選ばれた。
 
「球児のストレートは140出ているか出ていないか、ぐらいしかなかったんですよ。でも横から見ると、速い。甲子園で優勝したピッチャーとかよりも切れがあって速く感じたんですよ。こいついいピッチャーだなと思っていた。そのときぼくは松坂の投球を実際に見たことがなかったので、球児の方がスゲーんじゃないのって思ってました」
 
 松坂に対しては対抗意識と弱気がいりまじっていたという。
 
「ぼくは2年生から(夏の甲子園に)出ていた訳じゃないですか。彼よりも(全国)デビューは早い。だから俺を差し置いて、という気持ちはありました。悔しいと思う反面、今、対戦しても打てないだろうな、絶対に松坂とはやりたくないと思っていました」
 
 というのも、高校3年生になった古木はバッティングを見失っていたのだ。
 
 きっかけは高2の冬にバッティングフォームを修正したことだった。
 
「周りから(右)脚を上げたほうがいいぞとか言われて、チャレンジしてみたんです。やってみたらそれまでのすり足よりもはるかに打球が飛ぶようになった。それでぼくも勘違いしてしまった。もっとホームランを打ちたいというのがあった。そうしたらフォームがばらばらになってしまった。早く気がついてやめれば良かったんですけれど、何が正しいのか訳が分からなくなってしまった。脚を上げれば変化球に対応しやすくなるはずなのに、躯がひらきっぱなしで変化球が打てない」
 
 それでも高校3年生の夏、豊田大谷は愛知県大会を勝ち抜いて甲子園出場を決めている。
 
「そもそも県大会の前、メンバーに入れる自信もなかったんです。打率は落ちていたし、2年生に背番号を取られてもおかしくなかった。甲子園に行けたのは、周りがカバーしてくれたからです。ぼくらの世代は結構メンバーが揃っていたので。常に苛々していて、チームメイトが見かねて声を掛けて救ってくれた面もあった。3年生の夏の甲子園はぼくの中では全然駄目でした」
 
 とはいえ、本人の言葉ほど成績は悪くはない。
 
 1回戦の東福岡戦では、4打数1安打3打点。五回一死二、三塁での第3打席ではセンター前安打を打ち、先制点をたたき出している。試合は6対4の勝利。続く智辨和歌山戦でも4打数2安打2打点。ホームラン1本を放っている。準々決勝の島根県代表の浜田戦は4打数1安打1打点。唯一の例外が準決勝だった。京都成章を相手に4打数4三振。試合も1対6で敗れている。
 
「自分の中にはっきりとした憧れの像があったんです。例えば、清原さんは高校通算ホームラン64本、松井(秀喜)さんは60本。そういう人を目標に置いていたんです。それと比べたら自分は全然足りない。そんな風に考えていたから、全然自信が持てなかったんです」
 

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