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かつての輝きなく…プロ野球、移籍後に成績低迷したFA戦士5人。失敗した戦力補強は?【投手編】

2023/10/04

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産経新聞社



プロ野球最新情報

 プロ野球の世界では、環境を変えることでさらなる高みを目指す選手がいる。その代表例がフリーエージェント(FA)移籍だ。今オフのFA戦線にも注目が集まるが、過去を振り返ると、新天地でも結果を残した選手がいる一方で、期待に応えられなかった選手も数多くいる。ここでは、移籍後に成績が低迷したFA戦士を投手に絞って紹介する。

 

 

川崎憲次郎


出身:大分県
投打:右投右打
身長/体重:182cm/87kg
生年月日:1971年1月8日
ドラフト:1988年ドラフト1位

 
 ヤクルトスワローズで活躍を見せたが、FA移籍後に苦しんだのが川崎憲次郎だ。
 
 大分県の津久見高校では背番号1を背負い、3年の春・夏に連続で甲子園に出場。夏の3回戦は、同年のドラフトでダイエーから1位指名を受けた篠田淳(岐阜県・大垣商業高校)と投げ合って勝利し、大きな注目を集めた。東邦高校(愛知県)に準々決勝で敗れたものの完成度の高いピッチングが評価され、スワローズと読売ジャイアンツから1位指名。重複の末スワローズに入団した。
 

 
 入団後の川崎は1年目こそ4勝止まりに終わったものの、2年目には12勝を挙げる。3年目は14勝・防御率2.91とさらに活躍し、先発の柱としてチームを支えた。
 
 1998年に17勝で最多勝、沢村賞を獲得した川崎は、2000年にFA権の行使を宣言。ヤクルト残留の可能性もあったというが、スワローズの対応に不信感を抱いたこと、故・星野仙一からのラブコールもあり、中日ドラゴンズへの移籍を決める。
 
 心機一転を図ったものの2001年のオープン戦で肩を負傷し、3年間1軍の試合で投げることができなかった川崎。それでも2004年の開幕戦、結果としては打ち込まれたが、落合博満が監督に就任した最初の公式戦で川崎は先発マウンドに上がった。最終的に、川崎は中日で勝ち星を挙げることなく同年で引退した。移籍後は3試合で0勝1敗、防御率34.71だった。

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