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苦しい北海道に元気を勇気を。中田翔のホームランを。【えのきどいちろうのファイターズチャンネル#84】

北海道を襲った大地震。いまだ収束の兆しが見えない中、ファイターズのペナントレースは続く。

2018/09/09

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蘇る東日本大震災の記憶

 最大震度7に到達した「北海道胆振(いぶり)東部地震」の惨禍はいまだ全貌がわからず、収束の兆しが見えない。ファイターズは9月6日の移動を断念、7日の楽天戦(楽天生命パーク)を中止とした。この先、ペナントレース終盤戦をきちんとやっていけるのか。余震が収まり、電力が復旧し、ホームゲームはつつがなく開催されるのか。
 
 先が見通せないなか、仙台の街へチームは向かった。たぶん誰しもが東日本大震災の記憶をよみがえらせているだろう。あのときの仙台、あのときの東北楽天ゴールデンイーグルスを想起しているだろう。生身の人間にとってはつら過ぎる、身をひきちぎられるような悲しみのなかで、あのときも野球なんてやってる場合ではないんじゃないかと思った。野球で勝ったり負けたりして、一体、何の意味があるのだろう。
 
 が、星野仙一監督の人間性と、嶋基宏選手の「野球の底力」という言葉力が、傷ついた人々の心に届いていった。干天の慈雨のように人の心を潤していった。僕らは学んだ。人が生きるにはライフラインが必要だ。衣食住が必要だ。そして、その上に心が動くことが必要だ。歌を聴いて涙したり、漫才やコントに爆笑したり、山崎武司のホームランに胸躍らせたり、そういうひとつひとつが生きる力だ。
 
 僕は2011年、当時の言い方でいう「Kスタ宮城」(日本製紙クリネックススタジアム宮城)に行った日のことを思い出す。もう3月11日から時間が経っていた。仙台の街で「チンネン」と再会したのだ。「チンネン」は川崎市立生田中学校の同級生だった。野球部でくりくり坊主だったから、寺の小僧さんみたいなあだ名がついたのだ。後に野球の強豪校、桜美林高校の野球部で鳴らした。
 
 あの年、大きな地震があって、年賀状に「チンネン」が仙台にいると書いていたのを思い出した。単身赴任だった。電話はしばらくつながらず、だいぶしてからふいにつながった。懐かしい声だ。電話を喜んでくれた。最初の地震から何週間か過ぎていたはずだけど、ひっきりなしに余震が続いているという。マンション住民の女性がもう気持ちをやられてしまって、余震の度に「いやあああああ!」と泣き叫ぶそうだった。宅配便が復旧したというニュースを見たから、「何か欲しいものない?」というと恥ずかしそうに「カップ麺」と言う。で、送った。そして「仕事をかたづけて近いうち仙台へ行くよ、一緒にKスタで野球を見よう」と約束した。
 
 今にして思うとKスタは空席が目立った。平日ナイターだったせいもあるけど、たぶんまだ野球どころじゃなかったんだと思う。それでも野球好きは球場に駆けつけていた。不思議にね、ファイターズのことを覚えてないんだよ。山崎武司。楽天の4番打者のことを覚えている。近くの席のおじさんが「タケシー、タケシー」、すごいんだ。僕は山崎武司はさすがだなと思った。苦しい苦しい時間のなかで、おじさんは山崎武司に託すものがあるんだ。山崎武司はそれを託すに足る男なんだ。そう思って見ると、楽天の白いユニホーム姿で悠々打席に入る山崎武司は最高の男前だ。街を背負って立つ男だ。「チンネン」の隣りの席で山崎武司にしびれた。「チンネン」は「野球はいいなぁ」と何度も言った。

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