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北海道移転後に主力選手へ――「鎌ケ谷1期生」を育てた白井コーチの功績【えのきどいちろうのファイターズチャンネル#62】

今季限りで、白井一幸コーチがファイターズを退団する。北海道移転後のファイターズ野球の礎を築いた功労者は、選手に対して常に全力プレーを要求した。

2017/10/22

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現役時代は「練習の鬼」

 2017年シーズンの札幌ドーム最終戦に時計を戻したい。この試合は「4番ピッチャー・大谷翔平」で大いに盛り上がったのだ。手元に翌10月5日付のスポーツ紙があるが、「完封! エースで4番 二刀流日本編『完結』/大谷 夢の続きは…海の向こうで」(日刊スポーツ東京版)、「大谷 完封! 4番打!/66年ぶり『4番投手』先発 本拠地最終戦飾った/育ててくれた札幌 3万9823人に届けた 最高の姿」(スポーツ報知東京版)と興奮をダイレクトに伝えている。
 
 が、この夜、もうひとつ感動的な出来事があったのだ。試合終了後、退団の決まった白井一幸コーチの胴上げが行われた。白井コーチの目に光るものがあった。
 
 たぶん若いファンにとっては「レアードの寿司ポーズ」や「横尾俊建のおにぎりポーズ」をやったり、スタンドに向かって手を振ったりする茶目っ気たっぷりの3塁ベースコーチだったんじゃないだろうか。白髪・メガネのナイスミドルだ。白井さんはある時期からファンサービスを心がけられるようになった。僕はあぁ、白井さん丸くなったんだなぁと思っていた。以前は人当たりこそ柔らかいが、内側に激烈なものを秘めた人だった。もっとはっきり言えば練習の鬼だった。
 
 僕はファイターズ野球を変革したキーマンは白井さんだったのじゃないかとにらんでいる。まぁ、「北海道日本ハムファイターズ」は本拠地移転込みの巨大なマネジメント改革であったから、フロントも含め何人もの主要キャストが存在するんだけど、現場のレベルでは白井一幸は外せないのだ。今週は白井さんのことを書かせていただく。
 
 そもそも僕は名二塁手だった背番号3、白井一幸選手のファンだった。駒澤大卒、1983年のドラフト1位だ。ドラフト同期に広島2位の小早川毅彦(法政大)、高卒なら巨人1位の水野雄仁(池田高)、近鉄2位の吉井理人(箕島高)らがいる。
 
 それが練習の鬼だったのだ。当時は「日本ハム多摩川グランド」の時代だけど、白井さんの猛練習は語り草になっている。練習場は多摩川の河川敷にあり、ちょっと歩いたところに勇翔寮があったのだが、全体練習が終わっても寮の施設でずーっと練習してる。白井さんは大卒のドラ1だし、フツーは寮生活を嫌って都内にマンションを借りたりするものだ。が、年齢制限のぎりぎりまでそこにいて、寮の規則で出なくちゃならなくなったら、わざわざ寮の近くに部屋を借りた。
 
 当時から男前で、フィールディングや身のこなしにセンスがあり、親会社の故地(日本ハムの前身は「徳島ハム」)もからんで、四国出身の白井さんはエリートコースだと思われていた。が、激しさや熱さで語られるべき人だったと思う。プレーヤーとして忘れられないのは90年代、大沢啓二監督が復帰して、広瀬哲朗と白井一幸で1、2番コンビを組ませたことだ。ヒチョリと賢介の1、2番のイメージかなぁ。実は森本稀哲、田中賢介は後に白井さん自身が育てるんだけど、まぁ、90年代にはチームのけん引役として大いに活躍したのだ。
 
 選手としての最晩年はオリックスのユニホームを着るが、引退後はコーチとしてファイターズへ戻って来る。そして当時、提携していたNYヤンキースの下部組織へコーチ修業に出るのだ。そこで白井さんが出会った「選手育成に定評のある監督」がトレイ・ヒルマンだった。ファイターズは鎌ケ谷に新たな練習場を建設し、育成を新たな柱に据えつつあった。それは90年代後半の「2軍監督・白井一幸」、そして00年代の「監督トレイ・ヒルマン、ヘッドコーチ・白井一幸」の時代へと結実していく。

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