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清原和博と野村貴仁、因縁浅からぬ二人の関係

球界の大スターだった清原和博の逮捕によって、過去、薬物使用で逮捕歴のある選手が思わぬ形で浮き上がる。オリックス時代にセットアッパーとして大活躍した野村貴仁もその一人だ。

2016/02/10

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hotmotfield

95年、96年のオリックス優勝に大きく貢献

 野村貴仁は、高知県立高岡高校宇佐分校時代は全くの無名選手だった。

 しかし三菱重工三原時代に第59回都市対抗野球大会に出場し、1回戦で大昭和製紙北海道に敗退したものの、好投が注目され大会屈指の左腕投手の一人と目される。

 90年のドラフト会議でオリックスから3位指名されプロ入りした。

 170cm75kgと小柄だが、スリークォーターから繰り出す140km/h近い高速スライダーは、左打者をのけぞらせた。打者の内角を思い切って衝く度胸があり、ピンチに強かった。

 入団2年目の4月21日の西武戦が初登板。3回を投げ4安打されたものの無失点に抑えた。この年は3回先発したが、以後は救援投手として活躍する。

 イチロー、田口壮、長谷川滋利などとともに、オリックス・ブルーウェーブの一時代を築いた主力選手の一人となった。

 1993年8月8日のロッテ戦、先発星野伸之の後を受けて6回1死から登板した野村は、7回に6番代打島田茂、7番大村巌を連続三振、8番青柳も1-2から空振りさせたが、この球を捕手の高田誠が後逸、青柳は振り逃げで一塁に生きる。しかし続く堀幸一も三振。
 振り逃げは三振に記録されるため、1イニング4奪三振となった。

 これは振り逃げも三振と記録されるようにルール改正されて以降2人目、1959年の大洋・幸田優に続く珍記録でパリーグ初の出来事だった(以後14人が記録)。
 この年の野村は3勝3敗8セーブ防御率1.53。スライダーが冴えわたり、キャリアハイの70.2回を投げて、83奪三振を奪っている。

 1996年、巨人との日本シリーズでは野村は4試合に登板し、すべて無失点。オリックスの日本一に貢献。特に95年、96年のオリックス優勝において、抑えの平井正史へつなぐセットアッパーとして鈴木平とともに大車輪の活躍だった。

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