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強行指名、涙、クジ引き――数々のドラマを生んだドラフト会議

プロ野球入りを目指す新人選手たちの運命を左右する、新人選手選択会議。通称、ドラフト会議が10月23日に開催される。第1回が開催されてから約50年の歴史を持つ、このドラフト会議はこれまで悲喜こもごものドラマと事件を生んできた。強行指名、涙、命運を決めるクジ引き――。枚挙にいとまがない、ドラフト物語を振り返る。

2014/10/12

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涙の物語と命運を握るくじ引き

 ドラフトにおける涙の物語といえば、清原和博だろう。
 
 PL学園で桑田真澄とともに〝KKコンビ〟と騒がれた清原は、自身の運命が決まる1985年のドラフトで悔し涙を流した。
 
 清原は早くからプロ入りを表明し、巨人もしくは阪神への入団を熱望。一方の桑田は早大への進学を表明しており、プロ入りはないものと思われていた。だが、巨人が桑田を1位で強行指名。対する清原は阪神を含む6球団から1巡目で指名を受けたものの、当然そこに巨人の名前はなく、西武が交渉権を獲得する。
 
 熱望していた巨人および阪神入団の望みが絶たれた清原は、直後の会見で涙。茫然自失とした様子がテレビカメラを通して全国に流れた。一方の桑田は、一転して巨人入りを表明。それぞれに複雑な思いを抱えて、プロ野球の世界に飛び込むことになった。
 
 悔し涙がある一方で、嬉し涙もある。
 
 昨年のドラフトで、九州共立大の大瀬良大地は広島、ヤクルト、阪神の3球団から1巡目で指名を受けた。のちの会見でも明かしたように、大瀬良の希望球団は広島。長崎日大高時代から5年にわたって、広島の田村恵スカウトに熱心に声をかけられ、いつしか意中の球団となっていた。
 
 くじ引きの場に立ったのは、その田村スカウト。抽選箱から引き出した封筒の中には、交渉権獲得と書かれた紙が入っていた。5年におよぶスカウト活動が見事に実った田村は、こみ上げてくる万感の思いを抑えきれず、目を潤ませた。
 
 2011年ドラフトでも、嬉し涙が流れた。
 
 即戦力左腕という高い評価を受けていた東洋大の藤岡貴裕はロッテ、横浜、楽天の3球団が競合指名。藤岡の意中の球団は、いち早く1位指名を表明していたロッテだった。そして、くじ引きでは、その希望通りにロッテが交渉権を獲得した。
 
 記者会見場に用意されたモニターで、その様子を見守っていた藤岡は安堵のため息を吐いた直後に号泣。「最初に(1位と)言ってくれた球団なので、嬉しかった」と、気持ちを明かした。
 
 このように、注目選手に複数球団から指名が集まるのもドラフトの醍醐味のひとつである。しかし、くじ引きで決まる所属チームに対して、すんなりと受け入れる選手もいれば、一方で自らの信念を貫く選手もいる。
 
 1965年からスタートしたドラフト会議において、史上最多の競合指名となった選手が、日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった1989年の野茂英雄と、1990年の小池秀郎で、ともに8球団から同時指名を受けた。
 
 野茂は交渉権を獲得した近鉄バファローズ(現・オリックス・バファローズ)に入団を果たしたが、ロッテが交渉権を得た小池は入団を拒否。社会人となった2年後のドラフトで近鉄から単独で1位指名を受けて、野茂のチームメイトとなった。
 
 信念を貫いた選手の代表格が、2009年ドラフトで巨人入りを果たした長野久義である。
 
 走攻守3拍子そろった外野手として早くから注目を浴びていた長野は、2006年と2008年のドラフトで、それぞれ日本ハム、ロッテから指名を受けたものの、巨人入りを強く希望していたために入団を拒否。そして2009年、巨人から単独1位指名を受け、念願叶って意中のチームへと入団を果たす。
 
 この長野のように、選ばれるだけでなく、選手自身が自ら運命を決めることができるのも、ドラフトである。当然、活躍できなければ強い批判を浴びることになるが、長野はその重圧を力に変えて、球界を代表する外野手へと成長を遂げた。
 
 ちなみに、高校生で最多の競合指名となったのは1995年の福留孝介(現・阪神)で7球団。このときは交渉権を獲得した近鉄への入団を拒否し、3年後に中日を逆指名してプロ入りを果たしている。また、近年では2009年の菊池雄星(西武)が6球団、2013年の松井裕樹(楽天)が5球団から同時指名を受けた。
 
 新人選手の運命を左右するドラフト会議。今年は10月23日に開催が予定されている。

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