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86年オフ、ある男からの呼び出しが、松原氏の運命を変えた【日本プロ野球選手会事務局長 松原徹回顧録2】

2004年の球界再編問題の時に、日本のプロ野球選手会の存在を知った野球ファンの方は多くいるのではないだろうか。しかし残念ながら、実際に選手会はどういう経緯で立ち上がり、どんな組織で、何を行っているのか、ほとんどの野球ファンがしっかりと答えられないのではないだろうか。今回、ノンフィクションライターの田崎健太氏がプロ野球選手会事務局長の松原徹氏へ選手会、そして野球界の抱える様々な問題について取材を行った。ベースボールチャンネル特別連載にてお届けする。前回に続き、事務局長の松原氏がどうしてこの組織に携わるようになったのか、背景をお伝えしたい。

2015/03/22

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ベースボールチャンネル編集部

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86年オフ、一人の男に呼び出される

 松原はパシフィックリーグで最も若い一軍マネージャーだった。経験がなく先入観がなかったが故に、これまでおざなりにされていた不備な部分が目に付いた。
 
 監督や選手たちは激しい対抗心がある。練習場の使用時間や、スターティングメンバーの発表などで細かな嫌がらせをする球団もあった。そのしわ寄せを食らうのはマネージャーである。せめて裏方だけでも連携をとるべきだという松原の呼びかけで、パリーグ全球団のマネージャーが集まって、食事会、ゴルフコンペを開くようになった。ロッテ以外のチームがどのように運営しているのか聞くことは松原にとって大きな財産となった。このマネージャー会議は、二軍にまで広がり、パリーグ六球団の裏方は密に連絡を取り合うようになる。
 
 そして、85年2月のことだった――。
 
 オリオンズは鹿児島で春季キャンプを張っていた。松原は選手会長だった袴田英利たちから「選手だけでミーティングをしたいので部屋を押さえてくれ」と頼まれた。
 
 一軍の選手全員、30人ほどを集めるという。それだけの部屋を借りるには代金が発生する。彼らの顔色から球団には内密にしたいという様子が伝わってきた。マネージャーは選手たちが気持ちよく野球をしてもらうのが仕事である。松原は「分かりました」と上司に報告することなく、独断で部屋を押さえた。
 
 そして袴田、落合、村田たちとホテルの玄関で東京から来たという男を迎えた。男を部屋に送った後のことは松原は関知していない。
 
 その話し合いの内容を知ったのは、その年のシーズンオフのことだった。11月5日、プロ野球選手会が労働組合法上の労働組合として認定されたというニュースが流れたのだ。
 
 松原は労働組合の結成に賛成だった。
 
 球団はもっと選手を大切にすべきだと松原は感じていた。ロッテのバスは古く、高円寺の寮に帰る前、環七通りで停まってしまったことがあった。
 
「寒い日にバスがエンコして停まるなんて、こんなのはプロの球団じゃない。選手の身体に影響するじゃないかと言ったことがあります。すると、金がないと言い返されました。しかし、バスを修理、修理しているから、修理費の方が高いじゃないかと」
 
 また、若くして一軍のマネージャーとなった松原を快く思わない人たちもいた。
 
 84年と85年、稲尾和久を監督とするロッテは2年連続勝率2位となった。しかし、86年シーズンは4位に終わり、稲尾は監督を解任された。
 
 そして、松原も一軍マネージャーを外された。釈然としない気分だった。そんなとき、落合博満から話があるとホテルに呼び出された――。
 
選手が言いにくいことを球団に伝え、交渉するのが我々の仕事【事務局長・松原徹氏に聞く、日本プロ野球選手会の実態3】
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日本プロ野球選手会事務局長
松原徹(まつばら・とおる)
1957年5月、川崎市生まれ。1981年に神奈川大からロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)に球団職員として入団。一軍マネージャーなどを務めた後、1988年12月に選手会事務局へ。2000年4月から事務局長。2004年のプロ野球再編問題では、当時のプロ野球選手会の会長であった古田敦也らとともに日本野球機構側と交渉を行った。
 
第3回目は、4月上旬に更新予定です。
 
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