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前田幸長、ドラフト1位の肖像#5――プロ野球生活20年、〝アンチ巨人〟だった男のしたたかさ

1988年ドラフト1位で当時のロッテオリオンズに入団した前田幸長。その後、千葉ロッテマリーンズ、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツを経て、最後には米国へ渡り3Aでもプレーをした。プロ野球の中では細身ながらも、独特のカーブとナックルボールを決め球に存在感を発揮した。(2017年2月19日配信分、再掲載)

2020/04/19

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田崎健太



ロッテに入団したからこそ……

 今から振り返ると、ロッテからプロ生活を始めたことは幸運だったと前田は考えている。
 
「当時のロッテは、ドラフト1位で入っても大きく扱われることはなかった。完封しても、ほんの小さな扱い。もっと大きく書いてくれないかなと思っていました。中日で注目度は上がったものの、地元のマスコミは比較的優しい。ちょっと打たれても、ボロカスに言うのではなく、次は頑張れよという感じで書いてくれた」
 
 しかし、ジャイアンツは全く違っていた。
「ぼくでさえも、いつも(記者やファンから)見られているんじゃないかって、思っていました。打たれると、〝前田、試合ぶちこわし〟と書かれる」
 
 実は、前田はジャイアンツにドラフト1位で入る可能性もあった。
「ドラフトの前、ジャイアンツのスカウトの方からこう言われたんです。〝うちが指名したら来てくれるか〟と。天下の巨人から誘われたんですよ。でも、ぼくはこう言ったんです。〝ぼく、アンチ巨人なんで〟」
 
 当時、九州で野球中継があるのはジャイアンツ戦だけだった。前田は父と共に、試合を見ながらジャイアンツと対戦するチームを応援していたという。
 
 88年のドラフト会議でジャイアンツは川崎憲次郎を1位指名している。川崎は複数球団の指名が確実とされていた。川崎を回避、あるいは外れ1位として前田を検討していたのかもしれない。しかし、前田はそれを断った。
 
「巨人に勝つチームが好きだったんです。巨人の注目度とか何も考えていなかった。本当に馬鹿でした」
 
 前田は大笑いした。そして、最後にこう付け加えた。
「ぼくはジャイアンツからプロになっていたら20年はやっていなかったでしょうね。あそこは怖いチームです」
 
 現在、前田は「都筑中央ボーイズ」という少年野球チームを主宰している。このチームのチームカラーは、黒とオレンジ、そして別名を「都筑ジャイアンツボーイズ」という。
 
「世間的には、ジャイアンツのイメージが一番、受けがいいですものね」
 
 ぼくがそう言うと、前田は「そうですね」とにっこりと笑った。
 明るく飄々と、そしてしたたかさ――前田がプロで生き残った秘密を垣間見た気がした。
 
 
【つづきは書籍で】

 

 
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