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「我慢することが肝心」トミー・ジョン手術後のリハビリ経験が、その後の財産になる【元ドジャーススカウト、小島圭市の禅根夢標】

読売ジャイアンツなどでプレーし、その後ロサンゼルス・ドジャースの日本担当スカウトとして当時、黒田博樹投手や齋藤隆投手の入団に携わった小島圭市氏の連載。小島氏は現在、スポーツ環境の向上から青少年の育成に積極的に関わっています。今回のテーマは「トミー・ジョン手術」について。小島氏本人も手術を経験しているだけに、その内容には説得力があります。

2015/03/20

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リハビリは山登りと一緒

――リハビリメニューが過酷だと聞きますが、実際はいかがでしょうか?
 
 過酷というよりも、いわゆる、やりたいのを抑えるというセルフコントロールの部分ですね。私にとっては、我慢することを覚えた時期でありました。痛みを伴い、利き腕を使えないなどがありましたが、過酷という考え方はありませんでした。時が来たら、投げられるようになる。1日1日の積み重ねを忘れずにすればいい。それだけの話ですからね。山登りと一緒。一歩ずつ進んでいったら、到達する。人生と同じようにとらえていました。
 
――リハビリをされながら、大変だったのは我慢を強いられることですか。
 
 そうです、やりすぎないことでした。ドクター・ジョーブに言われたのは、1日に、やらないといけないことがあって、でも、練習の7割やったくらいところで、痛みが出る時がある。1日のメニューから考えると、あと3割をやらなくちゃいけないのですが、痛みが出ているのに、やってはいけない、と。また、逆もありまして、どれだけ調子がよくても、1以上の練習をやってはいけない。1.1とか、1.2をしてしまうと、それが、次の日、0.8になり、0.7になるからです。1は1。それだけは守ってくれと言われました。ちょっとおかしいと思ったらやめなければいけない。
 
――最初のリハビリのメニューは何からでしたか?
 
 グーパー、グーパーです。手術をしてからはボールを投げないリハビリでした。9月に渡米して、その時に契約したテキサス・レンジャーズで練習をするようになるのですが、それまでは日本で孤独なリハビリ。僕は戦力外になった後でしたので、所属チームもなかったです。可動域を広げるリハビリをするのですが、1日1ミリを積み重ねていきました。1日、1ミリずつ前進すればいい。365日経てば、どれだけの進歩があるか。そう考えて取り組みました。
 
――小島さんは、ドクター・ジョーブの約束をしっかり守った。
 
 だから、復帰できました。中には、約束を破って失敗した人もいると聞きました。途中で、投げてしまった人もいるそうです。常に我慢の連続でした。マウンドに立つまでが戦いでした。病気も同じだと思いますが、これはやったものじゃないとわからないと思います。
 
――ひじ以外の部分のトレーニングはどのようにしていたのでしょうか?
 
 リハビリが始まった当初は比較的に楽なんです。できることが少ないですから。しかし少しずつできることが増えると、トレーニングも含めて、8時間くらいかかりました。全身の筋肉をバランスよくしなくてはいけなかったので、このトレーニングもしんどかったですね。僕の場合は、すべて一人でやっていましたので、その分、医学的なこと、精神科学、メンタル面おいても、ものすごく勉強しました。
 
――9月に渡米してからは、少しは楽になりましたか?
 
 ここでも我慢との戦いでした。フランク・ネビルといって、今はミルウォーキーでトレーナーをやっている人物がいるのですが、彼とのトレーニングが始まりました。でも、やろうとしたら、「STOP」とフランクから止められました。「Go home Go home」と言われましてね。マウンドに登るまで、欲を持ってはいけなかったです。欲を持ったら、終わりでした。

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