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青木宣親はイチローと似て非なる「安打製造機」。移籍多い中での偉業に称賛を【小宮山悟の眼】

ヒューストン・アストロズの青木宣親外野手が、史上7人目となる日米通算2000本安打を達成した。2003年ドラフト4位で東京ヤクルトスワローズに入団し、プロ14年目にして成し遂げた偉業。数々のメジャー球団を渡り歩き、結果を出し続けられるのはなぜか。

2017/06/19

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投手から外野手へ。土台は大学時代のコンバート

 青木の土台を作ったのはやはり早稲田大学時代だろう。
 
 当時の野村徹監督が青木を投手から外野手にコンバート。脚力を活かすためにレフト方向に打つ練習をさせた。嫌というほど叱られながら、反対方向に打つ練習をしていたという話を聞いたことがある。ちょっとでも引っ張るようなことがあったら、バッティング練習をやめさせるほど徹底していたという。
 
 コンバートしたくらいだから、青木がプロに行くイメージは大学入学時にはなかっただろう。それが3年でレギュラーになって首位打者を獲って、リーグ4連覇を果たしている。青木の同期には、鳥谷敬(阪神)、比嘉寿光(元広島)、由田慎太郎(元オリックス)がいた。早大で初めて4選手が同時にプロに入った年だった。そういった仲間たちと切磋琢磨した。特に鳥谷たちの存在は大きかっただろう。
 
 そう考えていくと、人生はどうなるか分からない。プロで入団したチームがヤクルトだったのも、彼には幸運だった。比較的自由にやらせてもらえる球団だったから、彼の力は引き出されたといえるだろう。
 
 メジャーへもトライアウトを経ての入団だった。
 
私が聞いた話では、もともと青木を欲しがっている球団があったが、事情が変わり獲得を見送ることになった。スカウトのつながりで紹介されたミルウォーキー・ブリュワーズのトライアウトで獲得に至ったのだという。その時から彼は成績を残し続けている。
 
 青木ほどの選手ならば、高望みしなければ契約は取れる。複数年などの長期契約は厳しいが、それこそ「ジャーニーマン」(編注:いくつものチームを渡り歩く選手)として転々と移籍しながら自身の居場所を見つけていくのだ。需要の多いタイプの選手であるのは事実だが、その中で結果を残し続けているのは並大抵のことではない。改めて賛辞を贈りたい。
 
 
小宮山悟(こみやま・さとる)
 
1965年、千葉県生まれ。早稲田大学を経て、89年ドラフト1位でロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)へ入団。精度の高い制球力を武器に1年目から先発ローテーション入りを果たすと、以降、千葉ロッテのエースとして活躍した。00年、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)へ移籍。02年はボビー・バレンタイン監督率いるニューヨーク・メッツでプレーした。04年に古巣・千葉ロッテへ復帰、09年に現役を引退した。現在は、野球解説者、野球評論家、Jリーグの理事も務める。

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