大谷翔平選手をはじめとした日本人メジャーリーガーを中心にメジャーリーグ・日本プロ野球はもちろん、社会人・大学・高校野球まで幅広いカテゴリーの情報を、多角的な視点で発信する野球専門メディアです。世界的に注目されている情報を数多く発信しています。ベースボールチャンネル



地元はフィーバー! 82年ぶりセンバツ出場の松山東(愛媛)は「不屈」の伝統で挑む

名門・松山東が甲子園に帰ってくる。久しぶりの甲子園出場に地元も大賑わいだ。

2015/03/21

text By

photo

寺下友徳



先達たちが示した「不屈の精神」を見せる時

 戦後の学制改革による松山一高時代を経て「松山東高」と校名を変え、再び甲子園に戻ってきたのは1950(昭和25)年の夏。決勝戦では鳴門(徳島)との四国対決を全員安打により12対8で制し、3度目の甲子園で初の全国制覇。が、この快挙は前年の1949年9月、戦後もライバル関係にあった松山一高と松山商が県立高校の再編成により統合され、松山東高普通科・商業科として再出発した「統合チーム」によるもの。
 
 松山東野球部の初代監督には松山商監督だった中村国雄が就任。残った普通科の選手は新3年生3名・新2年生1名のみだった。ちなみにこの優勝は後に松山商3度目の夏甲子園優勝にもカウントされ、優勝旗レプリカは松山商の下にある。
 
 統合期は1951年12月をもって終わりを告げたが、松山東OBにとっては小骨が喉に引っ掛かったような2年4カ月の出来事。今回、胸に黒字で描かれた「MATUYAMA」が当時のユニフォームに近いアーチ型に変更されたのも、松山中・松山一の伝統を絶やすことなく戦った4名による不屈の精神を受け継いでほしい想いもあるからに他ならない。
 
 正直、3月14日の練習試合では高知南(高知)に1対10と大敗を喫するなど、松山東のチーム状態は決してよくない。ただ、「いろいろなことを経験させてもらっている」(堀内準一監督)中で、マイナスをプラスに変えることも松山東のストロングポイント。これまでも厳しい環境を言い訳にせず、前に進むことを選択した賢者たちならば、その答えはもう見えているはずだ。
 
 果たして先達たちが示した「不屈の精神」は65年の時を超えて、どんな形で提示されるのか? その作業が完璧になされた先には、ほとんどの人々が一度しか翻らないと思っている校旗、そして2回攻撃時に一度しか歌えないと思っている校歌が聖地に2度流れる瞬間を待っている。
 
ベースボールチャンネルのフェイスブックはこちら→
ベースボールチャンネルのツイッターはこちら→

1 2