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30代当時「野球に興味はなかった」【前日本ハム球団社長・藤井純一氏#1】

現在、日本のプロ野球界で実に効率的なチーム作りをしているのが北海道日本ハムファイターズである。東京から北海道へ移り、地域密着に成功した球団の土台を築いた一人が藤井純一前球団社長だ。これまでの藤井氏の話を聞くと、「負けない」ファイターズ、「集客力のある」ファイターズの土壌が見えてくる。

2015/08/18

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当時は球団に興味なく、転職を考えた

 74年シーズンより『日拓ホームフライヤーズ』から球団を引き受け、『日本ハムファイターズ』となったのだ。
 藤井はその時、球団を買ってどうするのだろうと首を傾げていた。しかし、球団を所有したことの影響は確実にあった。
 当時、日本ハムは伊藤ハムに続く、業界二位。合併で出来た会社ということもあり、知名度はそれほど高くなかった。球団を持った後、新規の店に営業へ行くと「よう来てくれたな」と以前と違い好意的な対応が増えた。
 
「自分たちが取引している企業が球団を持つなんて誰も思っていなかったんでしょう」
 とはいえ、藤井自身は野球に興味はなかった。
 
 趣味は車だった。
 
「大学のときから車が好きだったんですけれど、そのときはお金がないじゃないですか? なので就職してからレースを始めたんです。国内B級のライセンスをとって、自分で車をいじって……。京都のチームに入っていたので、土曜日の夜は宇治とか園部の林道を走っていました」
 
 ある年の12月、チームがあるラリーに参加することになった。藤井もナビとして誘われたが、クリスマス商戦で忙しいと断った。すると、車が道から落ちて二人が亡くなった。チームは解散、藤井はラリーを辞めた。

「潮時やったんちがいますかね」
 
 35才のとき、藤井は日本ハムを退社することにした。
 
 入社の際、数年で本社勤務となると言われていたのだが、福知山営業所から奈良営業所に転属となり、その約束は守られなかったのだ。その頃、新聞で見つけた製薬会社の幹部候補生募集に応募していた。試験に合格、社長と食事にも行っていた。
 
 しかし――。
 
 転職に妻が反対。藤井は渋々日本ハムに残った。すると翌年、日本ハムの本社営業企画部に異動となった。
 
——–
藤井純一(ふじい・じゅんいち)
1949年大阪府生まれ。近畿大学農学部水産学科卒業後、日本ハムに入社。1997年、Jリーグクラブのセレッソ大阪(大阪サッカークラブ株式会社)取締役事業本部長に就任、2000年に同社代表取締役社長。2005年、株式会社北海道日本ハムファイターズ常務執行役員事業本部長に就任。翌年から2011年まで代表取締役社長(06、07、09年にリーグ優勝、※06年は日本一)。現在は近畿大学経営学部特任教授を務める。

 

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