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怪我続きの鬼崎、正捕手奪還へ心機一転の大野……背番号に秘められた悲喜こもごものドラマ

来季ファイターズは5選手の背番号が変更になる。背番号変更には選手の評価、ステイタス、期待の反映が表れているケースが多い。

2015/11/24

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高木豊も最初は「16」

 背番号が軽くなって活躍した選手と言えば、オールドファンは巨人の柴田勲を思い浮かべるのではないか。
 法政二高時代、春夏連覇をし、屈指の投手として巨人に入団した柴田は、投手としてはいい番号の「12」をもらう。しかし投手としては成功せず、外野にコンバートされる。

 俊足と強肩でたちまちレギュラーとなった柴田だが、しばらくは「12」で外野を守っていた。しかし1970年には「7」に代わる。柴田はONについで2000本安打を記録するなどV9の中核選手として活躍。背番号「7」は、赤い手袋とともに柴田の代名詞となった。

 横浜の名内野手、高木豊も「16」という野手には似つかわしくない番号で入団したが、翌年には「3」になり、スーパーカートリオの中核として大活躍した(現役最終年、移籍した日本ハムでは「16」をつけた)。
 こういう例は枚挙にいとまがない。
 最近では巨人の坂本勇人だ。「61」で入団し、3年目から「6」に代わって、セリーグを代表する遊撃手になった。

 その一方で、若い番号をもらいながら活躍できなかった選手もたくさんいる。
 阪神の藤倉一雅は1979年ドラフト外で入団した内野手だが強肩俊足を買われ、いきなり「3」をもらう。しかし鳴かず飛ばずで4年目にはロッテにトレードされている。

 坂本と同じ背番号「61」だった巨人の内野手、吉岡雄二は二軍での活躍もあり、4年目に「10」をもらうが、レギュラーになれず、近鉄にトレード。近鉄でようやく才能を開花させた。97年から00年までは「41」。活躍が認められ、01年からは「3」に変更となった。

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