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「ドジャース愛を貫いた」は違う? ジャッキー・ロビンソン引退の真実【豊浦彰太郎の Ball Game Biz】

ジャッキー・ロビンソンはその存在自体が神格化され、実態がわかりにくくなっている部分は否めない。その引退も移籍通告を拒否した後だったため「ドジャース愛を貫いた」と考えられがちだが、事実は異なるようだ。

2015/04/30

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青木42番

引退の動機は「ジャイアンツへの移籍拒否」ではない

 4月15日は毎年恒例のジャッキー・ロビンソン・デーだった。1947年のこの日、ブルックリン・ドジャースのロビンソンがメジャーデビュー。19世紀から続いた人種の壁が遂に崩壊したのだ。1997年の4月15日には、MLBはロビンソンの背番号42を全球団の永久欠番にすることを発表し、2004年にはMLB全体の記念日に指定された。2007年からは、全選手がこの日は42を背負ってプレーしている。

 しかし、ロビンソン・デー年々が年々盛大になって行くのに伴い、ロビンソンも神格化されていき、その真実がややわかりにくくなっている側面も否定できない。

 引退に関するエピソードもそうだ。1956年12月に、ドジャースから当時は同じニューヨークに本拠地を置くジャイアンツにトレードを通告されると引退を表明したが、一般的にはこれは「ドジャース愛を貫いたため」と認識されている。しかし、事実はそうではなかったようだ。

 ここで少し個人的なことに触れさせていただく。2003年9月のある日のことだ。私は、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地球場AT&Tパーク(当時の名称はパシフィックベル・パーク)のスタジアム・ツアーに参加した。この手のツアーの楽しみの一つはガイド職員のトークだ。当たり外れはあるが、ジョークを交えながらレアな歴史的エピソードを教えてくれる。そして、この日のガイドは「当たり」だった。参加者全員がゲラゲラ笑いながのら約1時間半のツアーが終盤に差し掛かり、どこの球場でも定番の外野スタンドに掲示されている永久欠番についての説明に入った。「24」のウィリー・メイズや「27」のホワン・マリシャルらを経て、最後に全球団で欠番の「42」の順番になった。

「だれの番号かはご存知ですよね。そう、ジャッキー・ロビンソンです。彼は何を成した人物でしょう!」

 そして、参加者が「アフリカ系初の…」と答えようとした瞬間、ガイドがそれを遮った。「わが、ジャイアンツへの移籍を拒否し引退した憎いヤツなんだ」。相当際どいジョークだが、約20人のツアー全体がドっと涌いた。

 しかし、今年のロビンソン・デーに『サンフランシスコ・クロニクル』の電子版に掲載されたジョン・シェイ記者の記事「ジャッキー・ロビンソンがジャイアンツを拒否した本当の理由」によると、引退の動機は「ジャイアンツへの移籍拒否」ではなかったようだ。

 確かに彼は、トレードを通告されるとその後引退を表明したが、もともと引退を考えていたという。その理由は、まずはビジネス的判断で、56年シーズンを打率.275で終え翌シーズンを38歳で迎える彼は、年齢的衰えとその後の生活の安定を考え実業界への転身を決意していた。
 すでに、ニューヨークのレストラン・チェーンの副社長へのオファー受け入れと、『ルック』誌への引退記事の独占掲載の権利売却を決めていたのだ。

 記事では、その背景として「ドジャース愛」どころか「ドジャースへの失望もあった」と指摘している。45年にロビンソンと契約を交わし、その後のメジャーへの道を開いたのは当時のドジャースオーナーのブランチ・リッキーだったが、50年から経営権はウォルター・オマリー一家に移っており、彼らや当時のウォルター・オルストン監督との関係は必ずしも良好ではなかった。

 ジャイアンツは、56年は年俸3万1500ドルだったロビンソンに6万ドルを提示し、翻意を求めた。ロビンソン人気による観客動員増の期待もあったと思われる。しかし、彼の決意は揺るがなかった。

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shiro





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