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大阪桐蔭・西谷浩一監督が高校野球で指導する理由。甲子園が遠かった球児時代…

西岡剛、中村剛也、中田翔、平田良介、浅村栄斗、藤浪晋太郎……現在、プロで活躍する選手を多く輩出している大阪桐蔭高校の西谷浩一監督。彼らを指導した西谷浩一監督は、時代や社会環境がどんなに変化しても、「高校球児の甲子園に対する想いは全く変わらない」という。(『ベースボールサミットVol.3 』より)

2015/01/24

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Shirou Tanigami



自分の運のなさ、情けなさに落ち込んだ

――選手として目指した甲子園から今度は、指導者として甲子園を目指すことになります。関西大学を出て、93年春に大阪桐蔭でコーチとして指導者人生がスタート。98年11月からは29歳で監督になりました。
 
 指導者になってからも、なかなか甲子園には辿りつけなかったですね……。コーチ、監督として初めての夏はどちらも大阪大会で初戦負け。そのあとも、まあ、ここまで甲子園に嫌われるか、という戦いが続きました。
 
――2000年秋は近畿大会でベスト8入りながら他の大阪2校がベスト4に残ったためセンバツ漏れ。翌夏は決勝で上宮太子に延長で負け。01年秋には近畿大会優勝でセンバツ当確も発表直前に過去の部内不祥事から、その責任を取る形で西谷監督は甲子園のベンチから外れました。
 
 04年の夏は、大阪大会史上初の決勝再試合で前田健太投手(現広島東洋カープ)が1年生だったときのPLに敗れてここでも甲子園に行けず。もう本当にどこまで続くのか、と、夜に一人で車を走らせていると、自分の運のなさ、力のなさにとことん情けない思いになり、落ち込んだときもありました。
 
――その思いがようやく晴れたのが05年夏。最上級生となったエース辻内、4番平田にスーパー1年生・中田が加わり、大阪大会ではPLも倒し優勝。甲子園ベスト4の強さを見せると、翌夏、中田が3年になったセンバツと連続出場。さらに「スター不在」と言われた08年夏に17年ぶりの全国制覇で一昨年は史上7校目の春夏連覇。一気に流れが変わりました。
 
 確かに、甲子園に出たことで流れが変わったというのは感じました。あれだけ勝っている高嶋先生でも、智弁和歌山では勝てない時期があったと言いますし、そういう経験も経て、次につながるということなんでしょうか。初めての甲子園は、ここが憧れ続けてきた場所だったのか、と、何とも言えない気持ちになったのを覚えています。
 

 
――今や、全国屈指の強豪と見られるようになりました。しかし、現場を預かる立場としては、甲子園を目指しつつ、そこばかりでもない、という思いもあるのでしょうね。
 
 やはり高校野球は教育の一環、野球を通じての人間形成という部分が大きい。人を思いやる気持ちであったり、耐える力や自立心を身につけさせる。野球を通じて何を学べるかによって、そのチームの値打ちも決まると思います。勝利だけを目指すほうが楽な部分はあるでしょう。でも実際には10教えていることがあるとしたら、技術、戦術的なものは全体の1とか2。ほとんどは寮生活も含めての人間教育の部分ですから。やはり先々社会で働いて、将来家族を養い、生きていく力をつけてやるのが僕たちの一番の役目だと思っています。
 
――世間では大阪桐蔭の野球部に対し、極端に言えば朝から晩まで野球漬けで、野球がうまくなるための練習に終始している、そんなイメージがあるかもしれません。
 
 そういう見方もあるでしょうね。でも、本当に日常生活を含め、特に寮で教えることが多いですね。今の時代は以前なら家庭教育で担ってきた部分も含め、普通に寮生活ができるまでに2、3カ月はかかりますし。挨拶礼儀、時間を守る、人と協力して動く。そんな基本的なところから繰り返し教えていきます。

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